遠き屋根に日のあたる春惜しみけり　久保田万太郎【季語＝春惜しむ（春）】

2023.05.03
ハイクノミカタマンスリーゲスト

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遠き屋根に日のあたる春惜しみけり)

久保田万太郎
『流寓抄』

晩春の日差しが、遠くに見える家々の屋根を照らしている。その光景に、過ぎゆく春をなごり惜しく感じている。俳句になじみがない人にもわかりやすいであろう、シンプルな内容の句だ。

私は俳句を作り始める前に久保田万太郎の俳句と出会った。

ふらんす堂の『久保田万太郎句集　こでまり抄』というとても薄い文庫本をバッグの中に入れておき、電車やバスでの移動中、あるいは何かの待ち時間に、たまに取り出しては読んでいた。いや、眺めていたと言う方がただしい。ひらがなが多くて難解な言葉がなく、俳句のことを何も知らなくてもだいたい意味がわかる。言葉遊びのようなリズムも心地よかった。

２、３年ほどそんなふうに万太郎の俳句を眺めていて、自分も俳句を作ってみようかな…と思うことはなかった。ただただ『こでまり抄』のぼんやりとした読者だった。

この薄い文庫本に、別の世界への入口を見つけたのは、さらに数年後のことだ。

ほんとうに、ぼんやりしている。

掲句に戻ろう。

「日のあたる」明るさは、自分から遠く離れた「屋根」にある。その遠さが惜春の情をかき立てる。

そして上五「遠き屋根に」の字余りと、中七下五にかけての「春惜しみ」の句またがりは、いくつものリズムの起伏を生みつつ、切字「けり」で詠嘆のこころを響かせている。一筆書きのような一句であるが、万太郎の言葉の技を感じさせる。

万太郎の本業は劇作家・小説家であり、俳句は「余技」「日々の心おぼえ」だった（「春燈」の主宰でもあり、句会は頻繁だったと思うが）。それゆえ、天文や時候の季語をよく用いていて、前書も多い。

掲句は「鎌倉を訪ふ。二句」と前書があるうちの一句。昭和31(1956)年の作である。成瀬櫻桃子（万太郎の弟子）の「精選350句」である『こでまり抄』には入集していないが、2021年に上梓された岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』では、編者恩田侑布子さんの選（902句）に入っている（恩田さんの解説が、内容・文章ともにすばらしい）。

言うまでもなく、万太郎俳句のほとんどは、前書に頼らずとも一句として鑑賞に堪えうる。が、いまは手に入れやすい全句集もある（生駒大祐編『久保田万太郎俳句全集』暁光堂）ので、万太郎の人生に寄り添いつつ、前書を含めてゆっくり読んでいくのもたのしいと思う。

ただ、掲句を収めた『流寓抄』の巻末には、本人による長い来歴が記されているのだけど、こちらには収録されていない。

万太郎にちょっと興味がわいたという方には、大高郁子絵・編『久保田万太郎の履歴書』が取っかかりとしてよいと思う。文章は『流寓抄』の巻末も基にしてある。大高さんの絵のタッチは、万太郎の人生の悲喜こもごもや、人としてのダメな一面をユーモラスに見せてくれて、私はさらに万太郎のことを知りたくなった。

一句鑑賞のつもりが、ずいぶん道を逸れてしまった。

が、最後に、もうひとつ、『流寓抄』より前書つきの晩春の句を挙げたい。

_{その夜、”和田金”にて、かねてうはさに
　ききたる牛肉を試みて飽かず。}
夏近し焼くるとよりは烹にゆる肉

昭和25(1950)年、松阪を訪れての作である。

（古川朋子）

【執筆者プロフィール】
古川朋子（ふるかわ・ともこ）
1969年生まれ。「蒼海」会員。第６回星野立子新人賞受賞。

2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜＝日下野由季→篠崎央子（2021年7月〜）、火曜＝鈴木牛後、水曜＝月野ぽぽな、木曜＝橋本直、金曜＝阪西敦子、土曜＝太田うさぎ、日曜＝小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓