泉に手浸し言葉の湧くを待つ
大串章
心が乱れた時、それを紙に書いて文章にすることは有効な解決策である。
まず、事象を整理できる。客観的に見てみると大抵はたいしたことでない。一度書いて納得しなければ何度でも書けば良い。書き直すなかで、残すべきことの取捨選択が自然と行われて心が鎮まる。但し、SNS等でネガティブを他人に発信するのは控えたい。
次に、書きとめるとその内容を忘れられる。それは紙に書いた買物メモを忘れた時に実感する。必要だから書いたのだし、書くという経験をしているにも関わらずメモを忘れたらほぼ絶望的に思い出せない。書くと、忘却のスイッチが入るらしい。
それでも解決しなければ、これを書きためて本にしたらベストセラーになるだろうかと考えるのもお勧めだ。読者としてどうかという視点で考えると、最終的にはポジティブパワーで打ち勝った方がたくさんの人に読んでもらえるかも?などと考えるのも楽しい。
本当に大変な時には俳句が救いになりますよ、と言いたいところだがそれは不確実。自分や事柄を客観視するトレーニングにはなる。
泉に手浸し言葉の湧くを待つ
泉が湧くように言葉が湧いたなら。しかもそれが詩の言葉なら。吟行で、あるいは暮しの中の素敵な出会いで願うことだが、それは夢のような話である。多くの言葉を尽くしてもその感動を人に伝えることは難しい。俳句ならなおさらだ。
泉に水が湧くように言葉が湧くことを願ってせめて水に手を浸してみる。直に触れてみることで何かを授かることが出来るのではないか。保証はないけれども待つ。感じ取ったものを言語化するには、しかも詩的な言葉にするには時に果てしない時間を要することがある。
泉が湧くことに言葉が湧くことを引っかけるのは言葉遊びのようで一瞬立ち止まってしまうが、この句は「『湧く』つながりで」などといったたやすいアプローチで成立させたようには感じられない。もしそうだったとしてもそれは奇跡的な出会いと言いたい。あまりにも適切だからだ。
泉があれば泉に手を浸して言葉を待つことになろう。だが泉がないことの方が多いし源泉の水質を守るため触れてはならない泉も珍しくはない。それでも私たちは泉に手を浸すような心持ちで季語と向き合い、言葉が湧くのを待つしかないのである。しかもそれはすぐに書き留めなければ消えてしまう。書きとめて、別の言い回しを考えて、何通りも書き留める中で巡り会える言葉との出会いのは至上の喜びだ。そんな時には俳句が救いになるのである。
『大地』(2005年刊)所収。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】
【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔101〕メロン食ふたちまち湖を作りつつ 鈴木総史
>>〔100〕再縁といへど目出度し桜鯛 麻葉
>>〔99〕土のこと水のこと聞き苗を買ふ 渡部有紀子
>>〔98〕大空へ解き放たれし燕かな 前北かおる
>>〔97〕花散るや金輪際のそこひまで 池田瑠那
>>〔96〕さくら仰ぎて雨男雨女 山上樹実雄
>>〔95〕春雷の一喝父の忌なりけり 太田壽子
>>〔94〕あり余る有給休暇鳥の恋 広渡敬雄
>>〔93〕嚙み合はぬ鞄のチャック鳥曇 山田牧
>>〔92〕卒業歌ぴたりと止みて後は風 岩田由美
>>〔91〕鷹鳩と化して大いに恋をせよ 仙田洋子
>>〔90〕三椏の花三三が九三三が九 稲畑汀子
>>〔89〕順番に死ぬわけでなし春二番 山崎聰
>>〔88〕冴返るまだ粗玉の詩句抱き 上田五千石
>>〔87〕節分や海の町には海の鬼 矢島渚男
>>〔86〕手袋に切符一人に戻りたる 浅川芳直
>>〔85〕マフラーを巻いてやる少し絞めてやる 柴田佐知子
>>〔84〕降る雪や玉のごとくにランプ拭く 飯田蛇笏
>>〔83〕ラヂオさへ黙せり寒の曇り日を 日野草城
>>〔82〕数へ日の残り日二日のみとなる 右城暮石
>>〔81〕風邪を引くいのちありしと思ふかな 後藤夜半
>>〔80〕破門状書いて破れば時雨かな 詠み人知らず
>>〔79〕日記買ふよく働いて肥満して 西川火尖
>>〔78〕しかと押し朱肉あかあか冬日和 中村ひろ子(かりん)
>>〔77〕命より一日大事冬日和 正木ゆう子
>>〔76〕冬の水突つつく指を映しけり 千葉皓史
>>〔75〕花八つ手鍵かけしより夜の家 友岡子郷
>>〔74〕蓑虫の蓑脱いでゐる日曜日 涼野海音
>>〔73〕貝殻の内側光る秋思かな 山西雅子
>>〔72〕啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋櫻子
>>〔71〕天高し鞄に辞書のかたくある 越智友亮
>>〔70〕また次の薪を火が抱き星月夜 吉田哲二
>>〔69〕「十六夜ネ」といった女と別れけり 永六輔
>>〔68〕手繰るてふ言葉も旨し走り蕎麦 益岡茱萸
>>〔67〕敬老の日のどの席に座らうか 吉田松籟
>>〔66〕秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦
>>〔65〕さわやかにおのが濁りをぬけし鯉 皆吉爽雨
>>〔64〕いちじくはジャムにあなたは元カレに 塩見恵介
>>〔63〕はるかよりはるかへ蜩のひびく 夏井いつき
>>〔62〕寝室にねむりの匂ひ稲の花 鈴木光影
>>〔61〕おほぞらを剝ぎ落したる夕立かな 櫛部天思
>>〔60〕水面に閉ぢ込められてゐる金魚 茅根知子
>>〔59〕腕まくりして女房のかき氷 柳家小三治
>>〔58〕観音か聖母か岬の南風に立ち 橋本榮治
>>〔57〕ふところに四万六千日の風 深見けん二
>>〔56〕祭笛吹くとき男佳かりける 橋本多佳子
>>〔55〕昼顔もパンタグラフも閉ぢにけり 伊藤麻美
>>〔54〕水中に風を起せる泉かな 小林貴子
>>〔53〕雷をおそれぬ者はおろかなり 良寛
>>〔52〕子燕のこぼれむばかりこぼれざる 小澤實
>>〔51〕紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 津田清子
>>〔50〕青葉冷え出土の壺が山雨呼ぶ 河野南畦
>>〔49〕しばらくは箒目に蟻したがへり 本宮哲郎
>>〔48〕逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花 中西夕紀
>>〔47〕春の言葉おぼえて体おもくなる 小田島渚
>>〔46〕つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子
>>〔45〕鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし 後藤比奈夫
>>〔44〕まだ固き教科書めくる桜かな 黒澤麻生子
>>〔43〕後輩のデートに出会ふ四月馬鹿 杉原祐之
>>〔42〕春の夜のエプロンをとるしぐさ哉 小沢昭一
>>〔41〕赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
>>〔40〕結婚は夢の続きやひな祭り 夏目雅子
>>〔39〕ライターを囲ふ手のひら水温む 斉藤志歩
>>〔38〕薔薇の芽や温めておくティーカップ 大西朋
>>〔37〕男衆の聲弾み雪囲ひ解く 入船亭扇辰
>>〔36〕春立つと拭ふ地球儀みづいろに 山口青邨
>>〔35〕あまり寒く笑へば妻もわらふなり 石川桂郎
>>〔34〕冬ざれや父の時計を巻き戻し 井越芳子
>>〔33〕皹といふいたさうな言葉かな 富安風生
>>〔32〕虚仮の世に虚仮のかほ寄せ初句会 飴山實
>>〔31〕初島へ大つごもりの水脈を引く 星野椿
>>〔30〕禁断の木の実もつるす聖樹かな モーレンカンプふゆこ
>>〔29〕時雨るるや新幹線の長きかほ 津川絵理子
>>〔28〕冬ざれや石それぞれの面構へ 若井新一
>>〔27〕影ひとつくださいといふ雪女 恩田侑布子
>>〔26〕受賞者の一人マスクを外さざる 鶴岡加苗
>>〔25〕冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ 川崎展宏
>>〔24〕伊太利の毛布と聞けば寝つかれず 星野高士
>>〔23〕菊人形たましひのなき匂かな 渡辺水巴
>>〔22〕つぶやきの身に還りくる夜寒かな 須賀一惠
>>〔21〕ヨコハマへリバプールから渡り鳥 上野犀行
>>〔20〕遅れ着く小さな駅や天の川 髙田正子
>>〔19〕秋淋し人の声音のサキソホン 杉本零
>>〔18〕颱風の去つて玄界灘の月 中村吉右衛門
>>〔17〕秋灯の街忘るまじ忘るらむ 髙柳克弘
>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空 若杉朋哉
>>〔15〕一燈を消し名月に対しけり 林翔
>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
>>〔13〕膝枕ちと汗ばみし残暑かな 桂米朝
>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか 清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人
>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋 岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児 高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏 堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る 山口波津女
>>〔5〕もち古りし夫婦の箸や冷奴 久保田万太郎
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎 神野紗希
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる 岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】